曹操の2大合戦「官渡の戦い」「赤壁の戦い」が、大した戦いではなかったという説は本当か?

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兵力差10倍が覆された官渡の戦い

官渡の戦い(200年)は、河北を制した袁紹(えんしょう)と、河南を平定しつつあった曹操(そうそう)が中原の覇権を競った大戦である。正史『三国志』によれば、両軍の兵力差は10対1。つまり10倍もの兵力差を覆して曹操が勝利したというものだ。

 正確な兵力は不明だが、およそ10万対1万くらいと読める。注釈者の裴松之(はいしょうし)は「曹公の兵がそんなに少ないハズがない」と異論を呈したが、今回それは置いておこう。ちなみに小説『三国志演義』では袁紹軍70万に対して曹操軍7万と、かなり誇張されている。

 優位を保つ袁紹軍は、官渡の砦に曹操軍を追いつめ、押しつぶす持久戦を挑んだ。無理な力押しをせず、じわじわと官渡を呑みこみ、さらに南下して献帝(けんてい)のいる許都を脅かす、はずであった。

 袁紹軍の戦略は一概にミスとはいえないが、いささか長期になり過ぎたかもしれない。結局、袁紹軍の参謀・許攸(きょゆう)が寝返って、曹操に食糧庫の機密をもらす。それに賭けた曹操が乾坤一擲(けんこんいってき)、食糧庫を奇襲して焼き払い、勝利をものにした。

曹魏の大船団が、もろくも潰えた赤壁大戦

 そして赤壁の戦いも、これとよく似た格好になった。208年、今度は華北の覇者となった曹操が、孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)の連合軍と対した。南下する曹操軍は自前の北方の兵に、襄陽(じょうよう)の降兵を加えて公称80万。対する孫・劉連合軍は4~5万。官渡の戦い以上の兵力差だが、これも周知どおり圧倒的優位だった曹操軍が敗退した。

 曹操軍は赤壁の対岸にある烏林(うりん)に陣を構え、大規模な船団を置く。無理に攻めず、圧力をかけて降伏をうながし、敵の綻びを見いだそうとした。これも「戦わずして勝つ」という兵法の常道ではあったが、やはり対陣が長期に及んだのが災いする。曹操軍は戦う以前に、不慣れな風土で疫病に見舞われたのだ。

 身動きがとれないなか、曹操は孫権軍の重臣・黄蓋(こうがい)の投降を受け入れた。官渡の戦いにおける許攸のような「2匹目のドジョウを狙った」のかもしれない。だが黄蓋の投降は偽りだった。接近を許した曹操軍は船を焼かれ、ろくに応戦もできず大敗した。

 これらの戦いに共通するのは、兵力差を覆しての大逆転。日本でいう「桶狭間」や「厳島」のような大番狂わせが起きたのだ。

 まさに兵法書『孫子』のいう「その戦いをおこなうや、久しければすなわち兵を鈍らせ鋭を挫(くじ)く」「兵は拙速(せっそく)なるを聞くも、いまだ巧(こう)の久しきをみざるなり」である。『孫子』に注釈を入れた曹操が、その愚をおかしたのは皮肉であった。222年に陸遜(りくそん)が劉備を破った夷陵(いりょう)の戦いも、やはり似た展開。だからこそ、歴史的なターニングポイントと呼べるのだろう。

官渡・赤壁は、本当に大した戦いではなかったのか?

 さて本題だが、官渡も赤壁も「それほどの大戦ではなかったのでは」という説がある。

 まず官渡については、たしかに官渡で敗れたあとも袁一族は強大な兵力を有し、曹操は河北平定に7年も要した。また赤壁は、曹操軍の主だった将が戦死した記録はなく、その後も大陸における曹魏の優勢は揺るがなかったのは事実だ。

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