項羽と劉邦 垓下の戦い 項羽の最後 四面楚歌
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垓下の戦い(がいかのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)を中心に行われた戦い。この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。
紀元前203年、広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父の劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを願うようになった。漢軍から弁士の侯公[1]が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれた。
楚軍は本拠地の彭城(現在の江蘇省徐州市)への帰還を始めたが、劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。
漢軍は楚軍を追って固陵(現在の河南省周口市淮陽区の北西)という所まで進み、同時に韓信と彭越にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市太康県)に兵を進めた。しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては睢陽より北の穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚の大司馬周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と洨城(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)付近の垓下の劉邦の下に集結した。



